甲山の経木帽子の歴史

 経木帽子の生産地であった世羅郡甲山町(現世羅町)は、かつて全国の生産の7〜8割を占めていました。
大正中期より製帽が開始され、昭和10年頃にはこの地方の一大産業に発展しました。
また太平洋戦争の後、再度活況を取り戻し、昭和30年後半までは、経木帽子の製造は地場産業として地域経済に大きく貢献してきました。
 しかし、昭和38年頃にビニール製の製品が出始め、需要が減少し、かわって現在は中国産・南方産が流通しています。

【経木とは?】
 経木とは木材を薄く紙のように削ったもので、白くて粘りのあるシロ木(学名ゴンゼツ)が使われいます。
 シロ木は中国山地に多く、甲山地方の山にも豊富に自生います。
 
【経木帽子の誕生】
 明治の中頃、この地方は米と麦作の他には産業がなく、農村は疲弊し貧困状態にありました。これを憂慮した世羅郡長 島田尚一は、
 農家婦女子の副業にと麦稈真田(麦で編んだ帽子の半製品)・経木真田(経木で編んだ帽子の半製品)を奨励し、真田編み伝習所を
 開設して普及に努めました。
 その後、第一次世界大戦による全国的な不況のあおりで麦稈真田の業者は大打撃を受けましたが、業者の中には経木主体に切り替え
 、しかも自ら製帽に着手する者が現れました。
 この地方では、仁科易太郎(弊社初代社長)・久保武市氏が大正6〜7年頃に相次いで着手し、仁科から独立した河本卯一氏が事業を
 始め、俗に"甲山三大帽"と呼ばれるようになりました。
 
【経木帽子と甲山町】
 町内の"三大帽"だけで300人余りの従業員を有し、帽子の付属作業(リボンつけ)や真田編みなど、家庭で手内職をしていた人を含めると
 甲山・世羅両町の大多数の人が製帽業に携わっていたと言えます。

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